大会前のおよそ半年間、誰であろうと足跡ひとつ残せない聖域、それがオーガスタナショナルゴルフクラブ。
まるで日本の桜のように、すべてが花開く1週間のためだけにあり、マスターズ以外の358日は寡黙の時を過ごす。
世界中のゴルフファンは、夢のように仕上がったコースに集結するマスターたちの戦いを、あたかも少年少女になったかのように胸躍らせて待つ。
”One winner, all the others losers”
2005年、タイガー・ウッズが4着目のグリーンジャケットを手にした後の記者会見で語った言葉である。
自分はその"One"になりたい、2位以下の順位はすべて同じ、「その他大勢」と呼ばれる。
勝負の世界は結果がすべてなのだ。
2018年マスターズ、"One"になったのはパトリック・リードだった。
敗者になったジョーダン・スピースと勝ったパトリックを分けたものは、たった0.5インチ(1.27cm)の「運」だった。
マスターズで「運」を味方につけたのは誰だ?
誰かが言った
『ゴルフほど運不運が働く、これほど不公平なスポーツがほかにあるだろうか』
世界のトッププロは、クラブでボールを捌く熟達した職人である。手の形が変わるまで練習するのは、「運」の入り込む隙間を埋めたいからだ。
べン・ホーガンは、「運」に左右されるのはまだ未熟だからだと語った。マスターズの招待状を受け取ったプレーヤー全員が「匠」なのだ。
だから一般のアマチュアが味うほど大きな「運」はない。
しかしいくら研ぎ澄まされた技術があろうと、ゴルフにはその差を埋めきれない間隙が介在している。
勝者と敗者を隔てた0.5インチは、人知の及ばないところにあった。
12番でカードを切ったジョーダン・スピース
2014年、2016年、2017年、スピースは12番ひとホールで4回も池に入れた。スピースにとっては「悪夢のトラウマ」以外何者でもなかった。
ところが今年は見事に乗せて満開の表情を見せた。
しかもグリーン奥6mからなんとバーディ奪取!ついにスタート時点の9打差は3打差に迫った。
何もかも、それこそ本人以上に心境を知り尽くしているパトロンは、まるで泣き叫ぶような大声をあげて称賛した。
スピースが呪縛から解き放たれた瞬間だったが、本人はこの日最後の「運のカード」を切ってしまったことに気づかなかった。
アンラッキーは音もなくそっと忍び寄る
余勢を駆ったジョーダンは、その後の13、15番とバーディパットを放り込み続けた。
圧巻は16番パー3、上りのラインで30cmは右から左に切れる8mを読み切ってジャストインバーディ!
ついにこの日ー9としてスタートの5打差は消えてしまった。
パトロンの興奮は最高潮に達し、全員総立ちの大歓声はコース全体に響いた。
しかし18番、スピースのティショットは決別したはずの悪夢と再会する。
フェードでフェアウェイを狙ったボールは、160ヤードほど先の細い木の枝に当たって真っすぐ下に落ちた。
0.5インチの不運を確かめた記者がいた
アンラッキーなどの言葉では慰めにもならない。ばく進していた高速列車がいきなり止まったのだ。
試合中顔を覆うスピースなど誰も見たことはなかった。
スピースが不運にもボールを当てた小枝は、地元紙オーガスタ・クロニクルのエディー・ウォルトン記者が確認して翌日のブログにこう書いている。
「誰もいなくなったあと、ジョーダンのボールが落ちた場所に行ってみると、2片の小枝が落ちていた。太さはたった0.5インチほど、これがジョーダンの夢を奪った犯人であることは疑う余地がなかった」と。
パトリック・リードが13番パー5で事件を起こす
少し前、パトリック・リードは13番ホールのセカンドショット地点にいた。
この日はスタートホールからボギーで躓き、その後もバーディ、ボギー、バーディ、ボギーと、崖からの転落を必死で凌ぐゴルフだった。
自分の将来を変えるメジャー初優勝が見えている今、いくら”きかん坊”のリードといえど、前日のゴルフとほど遠い内容で胸中穏やかでなかったはずだ。
2打目は青空に放たれ、無心に浮遊するボールを見ていた中継局のアナウンサーが叫んだ。
「あ~~!ボールがクリークに消えました!」
とんでもない事件が起こった。
パトリックは12番で会心のバーディを決め14アンダーに戻した直後だったから話はややこしい。
パトリックが13番で切らなかったカード
現場に着いたとき、硬直したパトリックの筋肉が一気に緩んだ。
なんとボールは斜面にしがみついているではないか!
奇遇にも昨年優勝したセルヒオ・ガルシアが、ボールを運んだ位置とほんの数ヤードしか離れていない。
しかし二人の違いはそのあとのアプローチで、ガルシアがバーディとしたのに対し、パトリックはパーだったのである。
パトリックは、この日与えられた「最後の運のカード」をここでは切らなかった。
なぜなのか?
4ホール後の17番ホールで、すべてのことが明らかになる。
人間の力ではどうすることもできない運と不運
オーガスタの女神は、17番で小さな運の一粒を投じた。
人間がコントロールできない見えなが、笑うものと泣くものを決定的にしたのだ。
パトリックの2打目は、恐ろしく横に長いグリーンの左にこぼれていた。ピンは反対の右サイド、30ヤード近い大陸横断パットは、いかに熟練した「匠」でもOKまで寄せられるものではない。
多くのパトロンが3パットを危惧している中、パトリックのパターで弾かれたボールは、荒れ狂う海の表面のようにうねったグリーン面を生き物のように泳ぎ切り、なんとカップに当たってピン奥1.8mに止まった。
このミラクルに、パトロンたちがどよめいた。
カップの当たり方が天国と地獄のジャンクションだった
力学の「分力の法則」に習えば、直進してきたボールがカップに強く当たって飛び上がった時、力は上と前に分散される。
もし淵に当たらなかったら(想像するしかないが)、4m近く転がったはずだ。その返しをパトリックが入れたかどうかは神のみぞ知るところである。
この瞬間が今年のマスターズのクライマックスだった。
仮に0.5インチ左なら、3日目の15番のようにピンに正面衝突するからそのままカップに落ちてー16となり、誰も追いつけない世界に入ったかもしれない。
仮に0.5インチ右ならカップの淵に触れるため、ボールは逆に加速するので5m以上オーバーしたと考えられる。
この運不運を決めた「0.5インチのドラマ」は、いかにプロであろうとコントロールできる世界にない。
パトリックがパーパットを決めたときのガッツポーズは、勝者が誰かを確信したからだろう。
2018年の感動を彩った名優たち
この日、パトロンが一番大きな歓声を上げたのがリッキー・ファウラーの18番、バーディパットを決めた瞬間だった。
パトロンがジャンプしたので、地面が揺れたそうだ。
パトロンたちはスピースの大逆転劇を見逃したストレスから、叫びたくてスタンバっていたのだ。
残念ながらファウラーもスピースもルーザー(敗者)で終戦、パトリックの最高のマイナーパート(わき役)を演じきって幕を下ろした。
しかし彼らの頑張りがあったからこそ、アカデミー賞に匹敵するドラマの脚本が出来上がったのだ。
タイガーの復帰が与えるインパクトの大きさ
永遠に記憶に残るマスターズトーナメントに仕上げた役者はほかにもいる。
その代表がタイガーだろう。
タイガーは数ある試合の中で、一番勝ちたいのがマスターズだと公言している。
ウッズの自宅の庭には、4つの種類の異なる練習グリーンがあるが、そのひとつがオーガスタ仕様である。
芝の刈り方、起伏もスピードもすべてそっくりで、バンカーの砂まで同じに仕上げている。
グリーンを万全の状態にキープしているのは、タイガーに雇われた元オーガスタのメンテナンス・クルーたちだ。
オーラに包まれたトラが18番に上がってきたときの、大歓声とスタンディングオベーションを見たほかの選手たちは戦々恐々とした。
世代交代の新時代を期待していた若手たちが、数年前以上に引き締まった体でカムバックした絶対王者の凄味を敏感に感じてしまったのだ。
勝敗を分けた0.5インチのマスターズ・まとめ
優勝したパトリック・リードはどこのメーカーとも用具契約を結んでいない。
多様なメーカーから14本を選りすぐって戦うのはプロとしては稀である。それだけギア(道具)へのこだわりが強い証拠だ。
あまり知られていないが、パトリック・リードは2014年に「オレは世界トップ5のゴルファーだ」と、とんでもない大口をたたいた。
その時はさほど期待されない、世界ランク44位の選手がそう言い放ったので話題になった。
こんなビッグマウスは日本人に嫌われるだろう。
そうかもしれないが、それくらいの気概がないとメジャーを手にすることはできない。
「オーガスタの女神の運」を味方につけたいなら、日本人の常識を超えた欧米人に負けないガッツを持たない限り、0.5インチの差は埋まらない。